Saturday, January 16, 2016

「南京大虐殺」 誰が何人殺されたのか?便衣兵の掃討

「大虐殺」があったというのに増えている南京人口

中国政府は「南京大虐殺」で30万人以上が殺されたと主張しているが、当時南京には30万人も人が住んでいなかったことはよく知られている。また、南京戦前後を比べると、人口も増えていた。この根拠となるのは、16人の西洋人からなる南京安全区国際委員会(以下、安全区委員会)の記録や、アメリカ人教授の人口調査だ。

竹本忠雄氏、大原康男氏によると、南京の安全区委員会委員長ジョン・H・D・ラーベ氏は、南京戦が始まった12月10日付日記に、安全区の人口を20万と記している。その後、日本軍による占領が続くが、南京安全区国際委員会(安全区委員会)の記録は、12月17日付文書以降、一貫して20万だった。安全委員会は、難民の食糧問題に対処しなければならなかったので、安全区の人口を正確に把握する必要があり、この記録は信頼できるといえる。

さらに、南京戦後、1938年1月の安全区委員会の文書には、安全区の人口は25万人とあった。5万人増えている。この増加は、城内に潜んでいた中国軍将兵とその家族、および一般市民を「平民分離工作」の際に「敵意なし」として登録した分だろうという。その後、2月上旬に、金陵大学教授のルイス・S・C・スマイスは多くの中国人を動員して人口調査を行ない、3月下旬の南京の人口を「25万ないし27万」と推定している。また、3月28日に発足した南京維持政府南京市政公署が登録した住民の数は「27万7千人」である(竹本、大原、2000)。

これらの記録で見る限り、南京戦前の人口は「20万人」、南京戦終結時は「25万人」、その後は「27万人」に増えている。人口が30万減ったとの中国の主張とは真逆の事実である。

人口増加は、日本軍が入ったことにより、治安が良くなったという理由も挙げられる。それを示す写真は、『南京の実相』(2008)などの書籍にも多数紹介されているが、ここでは割愛する。

軍服を脱ぎ捨て市民の格好をしていた便衣兵

人口は増加したが、南京戦は戦争だ。当然死者は出るのであるが、誰が何人殺されたのだろうか。ここで、便衣兵に触れる必要がある。

日本軍は、軍事行動の一環として、中国軍敗残兵、便衣兵を掃討、殺害した。日本「南京」学会理事の冨澤繁信氏によると、中国の防衛司令官唐生智が1937年12月12日、降伏せずに南京を放棄すると、南京の城門、城壁を守備していた中国軍は、各方面に敗走していった。城外へ逃げた者もいれば、一般市民の住む安全地帯に逃げ込み潜伏した者もいた。厄介なことに、中国兵は誰でも便衣(平民服)を持っており、状況が不利になると便衣に着替えて一般市民になりすまし、時期を見ては戦闘行為をした。安全地帯に逃げ込んだ敗残兵も市民になりすました。

冨澤氏によると、日本軍は城外と城内(安全地帯)の両方で掃討(占領地の治安を確保するため降伏しない敵兵を発見し逮捕・拘束すること)したが、城内では主に三回に分けてこれを行なった。次のようにまとめられる。

城内(安全地帯)での日本軍による中国軍敗残兵・便衣兵の掃討

日本軍部隊
掃討の期間
捕捉、銃殺、収容した中国軍敗残兵・便衣兵の数
備考
第七聯隊
19371214,15,16
6,670人(銃殺)
隠匿武器も押収

19371222
160人(処分)

第三十八聯隊
19371224日~193815
2,000人(捕捉し収容)
「良民証」付与の過程で
天谷支隊
19382
500人(捕捉)
城内外で。負傷兵は捕虜とした
第二十聯隊
19371213
200人(銃殺)
市民に懇請され偶発的に
合計

9,530

 出典:冨澤繁信、『南京事件の核心~データベースによる事件の解明』(2007年)より要約、74~76頁、136頁。


この日本側文献データによると、安全地帯では、捕捉された敗残兵・便衣兵は、殺害、収容、あるいは、捕虜にされ、少なくとも約7,000人は殺害されている

冨澤氏は多くの文献を調べているが、中には、未確認の数字や、大雑把な数を載せているものもあるという。一応の目安として集計すれば、日本軍により、城外と安全地帯の両方で捕捉された敗残兵・便衣兵・捕虜の数は、約37,000となる、としている(冨澤、2007)。

便衣兵は法的に保護を受けられない不法戦闘員

ちなみに、便衣兵の法的立場について触れるが、東中野氏によると、当時の現行法はハーグ陸戦法規で、「交戦者の資格」として四条件を挙げ、これらを満たす者は法に守られていた。つまり、交戦者(戦闘員)は、軍服を着て、武器を見せて、組織的作戦について初めて合法戦闘員とみなされ、敵の手に落ちても捕虜として保護を与えられるが、これらの条件を満たさない不法戦闘員は、この保護を享受できないというわけだ。市民になりすまし、武器を隠し持つ便衣兵は不法戦闘員で、保護は受けられないことになる。更に、南京の城内で、日本軍に降伏した中国兵はいなかったという。南京陥落の1937年12月13日から、東京裁判が終わった1948年12月までの11年間、誰も、日本軍がハーグ陸戦法規を犯して捕虜を殺害したと告発しなかった、と(東中野、2005、2006)。

日中合同の「平民分離工作」で兵士と市民を分離

ところで、竹本・大原両氏によると、掃討作戦後も、安全区に中国人将兵が多数潜伏していると予想されたので、日中合同の委員会が発足し、「平民分離工作」が実施された。これは、安全区に居住する青壮年の男子を対象として、体格・服装・言語の違い(中国では地方ごとに言語が大きく異なり、出身地の違う者同士では言葉が全く通じなかった)などを目安にして、兵士と市民を分離するものだった。その結果、査問委員会は、婦女子、老人、子供を除く成年男子16万人に「居住証明書」を交付し、中国軍将兵約2千人を逮捕して、日本軍に引き渡したのだ。また、日本軍は、掃討作戦を開始する際、担当する部隊に対し、「外国権益保護」「略奪・放火の厳罰」「青壮年の男子は敗残兵の恐れがあるので、逮捕・監禁する」とともに、「それ以外の敵意のない市民は寛容の心をもって接する」ことを命じている(竹本、大原、2000)。

勿論、巻き添えを食って、不幸にも殺されてしまった市民もいるはずだ。しかし、上記の人口増加、平民分離工作や、軍の命令を合わせて考えると、これらは、日本軍が無差別に市民を大虐殺したという主張とは相反する事実である。


【参考文献】

竹本忠雄、大原康男、『再審「南京大虐殺」~世界に訴える日本の冤罪』、2000年
冨澤繁信、『南京事件の核心~データベースによる事件の解明』、2007年
東中野修道、『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』、2006年
Higashinakano, Shudo. The Nanking Massacre: Fact Versus Fiction. 2005.
http://sdh-fact.com/CL02_1/9_S4.pdf


Saturday, January 9, 2016

「南京大虐殺」 プロパガンダ(1)

不透明なユネスコ記憶遺産登録

去年10月に「南京大虐殺」資料がユネスコ世界記憶遺産に登録された。南京陥落に関する史実を知る者にとっては唖然とするものであったが、これもまた、歴史の歪曲が利用され「真実」として世界に広められる一例となった。中国側の登録推薦状は次のようにある。

「日本軍は南京で6週間に亘って大虐殺を行なった。それは、中国の人々、とりわけ南京市民に前代未聞の衝撃を与え、今日までトラウマとなる記憶である。極東国際軍事裁判はその判決文で、日本軍によって20万人以上の中国人が殺され、2万人の女性がレイプ、または集団レイプされたと確認している… 南京軍事法廷は、『少なくとも30万人の中国人が殺された』と結論付けている。」

中国側からユネスコに提出された数々の資料は非公開で審査され、関係国である日本は資料を検証することも出来ず、一方的な中国の申請に基づき登録された。ユネスコのホームページには、登録された記憶遺産それぞれの紹介があり、その多くは資料の写真も見ることができるが、「南京大虐殺」のページには、まだ資料の写真が一枚もアップロードされていない。

「南京大虐殺」は、様々な側面から検証することが出来るのだが、ここでは、まず、それが「プロパガンダ」として始まったということを、様々な研究を参照して、一部おさらいしたい。

欧米人を利用してプロパガンダを広めた中国国民党の国際宣伝処

そもそも、「南京大虐殺」は日中戦争当時から、蒋介石の日本軍に対する情報戦略の主部として、アメリカを始め、海外でも精力的に宣伝されていた。中国国民党中央宣伝部の資料を研究した東中野修道氏によると、国民党は当初から軍事的に劣勢であったため、1937年12月13日の南京陥落の直前から宣伝(プロパガンダ)戦に総力を挙げていた。「現代の戦争は武力を用いることを除けば宣伝もまた勝敗を決する一つの要因である」と考えていた中央宣伝部は、宣伝戦で日本を貶め、国際的に日本を孤立させるため、日本軍を非難する材料を探していたという。国民党は、中央宣伝部の第五部を国際宣伝処に改組し、本格的な活動を展開した。


「党中央宣伝部国際宣伝処工作概要 一九三八年~一九四一年四月
国際宣伝処の組織図が示してある。左端には、国外の付属機関として「香港駐在事務所」「ロンドン駐在事務所」「ニューヨーク駐在事務所」が存在していたことが分かる。東中野氏は台湾の国民党党史館でこの極秘文書を発掘し、検証した。
出典:東中野修道『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』(2006年)16


宣伝部の1938年1月の『宣伝工作概要(口頭報告)』には、次のようにある。

「国際宣伝は、各種の言語、例えば英語、フランス語、ロシア語で宣伝通信を編集するほか...パンフレット71種を編集発刊している。特に宣伝活動と敵対宣伝を重視した。宣伝活動について、国際諸団体を引率し、国民外交を策動し、各新聞記者と連絡して、彼らを使って抗戦宣伝とすることは、すべてスムーズに進行している...」

つまり、中央宣伝部は、自らを表に出さず、キリスト教団体、国際友人、新聞記者などを動かし宣伝させていたのだ。そして、敵(日本)の軍閥が残酷であることを幅広く宣伝し、日本人自身も日本を嫌悪し精神的に敗北していくことを狙った。中央宣伝部副部長の董顕光は、その「自伝」に、最後まで南京に残った外国人記者との関係は、「公式なものを離れて、純粋な友人関係となった」と回想している(東中野修道、『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』、2006年)。

「南京大虐殺」第一報の裏には国民党顧問のアメリカ人

南京陥落後、現場に残っていた欧米の記者はわずか5名だったという。竹本忠雄氏、大原康男氏によると、そのうちの一人、ニューヨークタイムズのティルマン・ダーディン記者は、12月15日(陥落後三日目)に南京を去り、12月18日付で「拡大した民間人の殺害」を報道したが、この記事は伝聞であった。それは、南京大学のマイナー・S・ベイツ教授の作成したメモに基づいて書いてあったという(竹本忠雄、大原康男、『再審「南京大虐殺」~世界に訴える日本の冤罪』、2000年)。



出典:東中野修道、『南京事件―国民党
極秘文書から読み解く』(2006年)118頁
ベイツ教授が上海から「諸友宛て」に送ったという、1938年4月12日付の手紙には次のようにある。

「その本には、12月15日に南京を離れようとしていた様々な特派員に利用してもらおうと、私が同日準備した声明が掲載されています」

東中野氏は、「特派員」とはダーディン記者や、シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボールド・スティール記者を含む5人の欧米人記者で、「その本」とは宣伝本と判明した『戦争とは何か』である、としている。ベイツ教授は国際委員会の有力なメンバーで、宣教師でもあったが、エール大学所蔵の南京関係文書の中から見つかった新聞記事には、彼の顔写真の下に、「南京大学歴史学教授にして、中華民国政府顧問のマイナー・サール・ベイツ博士」とあった。ベイツ教授は中国政府と深い関わりがあったのだ(東中野修道、『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』、2006年)。

この、「南京大虐殺」を世界に広く知らせることとなった『戦争とは何か』(1938年)を編集したマンチェスター・ガーディアンのハロルド・ティンパーリ記者も、国民党の顧問であったことが分かっている。国際宣伝処処長の曽虚白の自伝『曽虚白自伝』には、次のようにある。

「ティンパーリは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた3人の重要人物のうちの一人であった...我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、我々の抗戦の深層と対策を理解する国際友人を探して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリ本人とティンパーリ経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した...このあとティンパーリはその通りにやり...二つの書物は売れ行きの良い書物となり宣伝の目的を達した。」(北村稔~櫻井よしこ、『日本よ「歴史力」を磨け』、2010年、の中で引用)。東中野氏によると、この著書には、その後、ベイツ教授の書いた部分も発見された。





極秘文書の中の「外事課工作概況」
中央宣伝部は取材に協力した記者を記録していた。「南京大虐殺」第一報を報じたスティール記者とダーディン記者の名前も含まれている。 
出典:東中野修道、『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』(2006年)50



この国民党の宣伝本『戦争とは何か』は、他の文献から推察される事象とは大きく異なり、事実に基づいていないのであるが、ベイツ教授は極東国際軍事裁判(東京裁判)で数少ない第三国人証人として、虐殺があったことを証言し、そのために、虐殺はあったと認定され、当時の司令官であった松井・石根被告は有罪となり、絞首刑となった。蒋介石の情報戦略は見事に成功していたのだ(米良浩一、井上雍雄、今森貞夫、『マッカーサーの呪いから目覚めよ日本人!』、2012年)。

当初2万人だった虐殺者数がいつの間にか30万人に

虐殺者数の数についてだが、南京大虐殺が起こっていたとされるまさにその時、1938年2月1日、国際連盟で中国代表の顧維鈞は、欧米の新聞に言及し、「日本軍が南京で虐殺した中国市民の数は2万人と推定」と演説、理事会に必要な措置を取ることを要請していた(日本の前途と歴史教育を考える議員の会、『南京の実相』、2008年)。しかし、1948年の東京裁判で、その数は20万人に跳ね上がり、現在の中国政府は30万人以上を主張している。

ちなみに、当時、国際連盟は、中国政府の訴えに関する決議案は採択したものの、中国の要請にも関わらず、日本に対して何ら具体的な措置は取らなかった(『南京の実相』、2008年)。

以上、様々な研究の一部を紹介したが、「南京大虐殺」は中国国民党が外国人を使って作らせたプロパガンダであることが明らかに示されている。しかし、この「嘘」は、78年経った今も、巧みに利用され、宣伝され、日本を貶め、世界に誤解を与え続けている。ユネスコは、「南京大虐殺」資料を記憶遺産に登録することで、その「嘘」に加担してしまっている。記憶遺産の目的は、人類が長い間記憶して後世に伝える価値がある記録物を残すことだが、意図的に一国を貶めるために捏造された話を遺産として守り続けるなど、人類が恥ずべきことではないだろうか。


【参考文献】

東中野修道、『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』、2006年
竹本忠雄、大原康男、『再審「南京大虐殺」~世界に訴える日本の冤罪』、2000年
櫻井よしこ、『日本よ「歴史力」を磨け』、2010年 (北村稔氏との対談)
米良浩一、井上雍雄、今森貞夫、『マッカーサーの呪いから目覚めよ日本人!』、2012年
日本の前途と歴史教育を考える議員の会、『南京の実相』、2008年